エステティシャン れいこはんの美容ネタ以外の日々雑多を語るページです


by reikohanda

ハンパ者被災者

あれから15年になります。


揺れ始めた5時46分、ワタシはちょうど目が覚めていました。

「まだ夜中か・・・何時やねん?」と時計に目を近づけて
「5:46」の数字を確認したとたん、デジタルの字が
揺れ始めました。

「お・・・・ 地震か!!エラい強いな・・・」

最初は横にユラユラ・・・
そして、突然「どかん!!!」とタテに大きな衝撃が走り、
初めて事の大きさに気づきました。

ちなみに、当時も今も、自分に対して、
「有事の時は冷静に」を言い聞かせているので、
地震の間は、実に平静を保っていました。

そのうち、ベッドの横に置いてた大きなステレオの、
やはりでかいスピーカーがワタシに倒れかかってきて、

「キャー!!!」と悲鳴をあげました。

「ゲゲッ!!ワタシとしたことが悲鳴をあげてしまった!!」

・・・と反省(?)し、後半は、実にクール(?)に揺られていました。

「お・・・ カーテンが遮光なのに、なぜか窓が光っとんな」とか、
「となりのマンション、エラい悲鳴あげとんな」とか、
「あ・・・ 本棚に飾ってる大事な皿 多分割れたな」とか、
「我が家、重量鉄骨やし、これなら壊れんやろ
  揺れが止まるまでこのまま揺られてよ・・・」

・・・とか思っていました。

・・・・揺れ終わって一番最初に思い出したことは、

「あ・・・ ウチ、今日から生理始まんねんやわ(男性陣ゴメン)」
でした(たしかに午後に始まってゲンナリした)。

そのあとに、ウチの真下の部屋で休んでるおじいちゃんの安否が
気になってあせったけど、本棚や戸棚がずれて
部屋のドアがふさがれてたのを、しっかり除けてから
階下に降りていきました。

それからは、家の中と一階の店舗内の片づけです・・・
グチャグチャでしたが、被害はほぼなく、
1階サロンでコーヒーカップ1個、
2階のおじいちゃんの部屋の本棚1つ崩壊、
これだけで済みました。3階は無事です。

昼頃まで停電してたんですが、午前9時すぎに突然点灯。
テレビも点き、一番最初に画面に映った画像が、
いつも乗り慣れた阪神電車の走車場から電車が崩れ落ちたシーンでした。

そのあとは、自分の家から1kmも離れてない阪神高速が落ちて、
バスが半分ぶらさがってるシーン。

普通ならここで悲鳴をあげて涙でも流すのが当たり前なんでしょうけど、
さきほど揺られながら「冷静たれ」と自己暗示をかけてたからなのか、
すっかり麻痺してしまっていて、

「あれ〜!!この図観たら、東京のおばちゃんたち、
 みんな泣いとるで!!こりゃ〜 うわぁ〜」

くらいの反応でした。
_______________

斜め前のお宅が外に井戸水が通っていて、それを自由に使わせてくださって、
トイレの水などは確保。これだけでも安心です!!

午後からは近所のダイエーに買いだし。
普段は食べない羊羹や、飲まないコーラやサイダーと
クチに出来るもの、手に取れるものは何でも買いました。
スーパーに物が売っているという状態も、非常に幸運です!


ちなみに、ウチの住んでいる西宮市甲子園は、神戸から阪神電車に沿って
存在していた活断層が、甲子園より2駅分ほど神戸寄りにある
今津の辺りから、北東方向に延びていたらしく、
今津の「震度7」とはレベルが違う、「震度6強」地帯でした。

震度6強と7じゃ、強さが倍ほど違うんですよ。

ですから、水道は1月末、ガスはバレンタインデーまで止まりましたが、
ご近所では建物の崩壊もほとんどなく、ご町内では亡くなった方も居らず、
親戚は阪神間には誰もおらず、
サロンの常連さんも友達も知人も、誰も亡くなった方が居りませんでした。
とても運のいい人間です!

翌日の18日には甲子園駅まで電車が来てくれるようになり、
我々は、自由に大阪に出られたので、物資の買いだしをしたり、
知人宅に泊まらせてもらったりが簡単に出来ました。

甲子園駅は、そこより西に住んでいる知人や親戚の家に物資を運ぶ人たちが
乗り降りする基地になっていました。
ウチも知人の方や、業者さんたちが、水や食材を運んでくださり、
非常にありがたかったです。
今でもとても感謝しております。


ちなみに、ワタシは、その基地から、一応「西宮市の被災者」なので、
大阪に出るときも、いわゆる「被災者ルック」で出かけましたが、
普段背負わないリュックやスニーカーは、しっくりこず、

「たいして被災してないのに、なんか雰囲気でこんな格好をしている
 ワタシはおかしいんではなかろうか??」と
自問自答しながら電車に乗っていました。


その頃から、自分自身が「なんちゃって被災者」なんじゃないかと
思うようになりました。
テレビで悲惨な状況を観るのですが、中途半端に自分も被災してて、
ほどほどのしんどさは味わっているので、
大変な場所に足を運んでボランティアするほどの余裕もなく、
なんとなく妙な疎外感がありました。
(そういえば、22日に結婚式をあげるブライダルのお客さんがおり
 石油ストーブをレンタルしてお水をお向かいに貰って営業はしたっけ)

数日後、物資を持って、常連さんの家を回り始めました。
だいたいの方が家も壊れずご無事でしたが、今津の辺りの方は
家が崩壊しているし、甲子園近辺の町並みと違い、
いわゆるテレビで観るのと同じ惨憺たる光景が目の前に広がっているのを
自分の目で確認して、事の重大さを理解した次第です。

その後、2月に入り、信州大大学院で構造計算の研究をしている友達に、
「研究題材として、建築物の壊れ方の資料を集めなアカンから
 案内してくれへんか」と頼まれ、
特に酷い被害が出ている地帯や活断層部分などを一緒に回りました。

大好きでよく行っていた街、
「この路地を入ればよく行ってた店が・・・」と思って
角を曲がったら、家の2階が路上に落ちてきたかのように
つぶれて、道をふさいで、先をいけませんでした。

人ひとり居らず、廃墟となった町並みを見て、愕然としました。


しかし、地震で揺られている間、自分自身に、
「冷静たれ」と自己暗示をかけてしまったのがまるで解けず、
やはり、常に醒めていたというか・・・
そういう状態が実は今も続いています。


さきほども晩の9時から、神戸新聞の記者さんたちが、
地震のあとの7日間をどれほどの苦労をおして新聞を発行して、
神戸の人たちを勇気づけたかというドラマがやっていて、
やっとこさ、涙を流して観ることが出来ました。
でも、自分のことに置き換えることがまだできません。

たぶん、阪神間の友達や親戚などの安否を必死になって確認していた
阪神間以外のところに住んでた人たちの方が、
よほど、あのときのことを思い出しただけでゾッとしてはることでしょう。


毎年、地震の日が近づくと、自分が「なんちゃって被災者」だと言うことを
感じさせられます。

あの時、自分の生活をなげうってでもボランティアに励む人たちが
たくさんおられましたが、自分もなんでああいうふうに出来んかった
もんかなぁと自問自答すること仕切りです。

震度7地帯で甚大な被害を受けた人たちの気持ちを
共有できないのを、毎年歯がゆく思いながら、
1月17日を過ごすのです。

しかし、今日になって、こういうことを書き連ねることが出来ただけで
ヘンなわだかまりがなくなっていくような気がしました。

これからは、純粋に甚大な被害を受けられた方たちの冥福を祈りつつ、
世界で次々に起こり続ける地震の被災者たちの何か手助けができたら
実行していきたいと考えております。

まずはハイチですね。


今日は笑いはナシです・・・
エラいすいませんでした。
次回からは平常営業(?)です。
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by reikohanda | 2010-01-17 00:14 | 日々雑多